相原 和弘Kazuhiro Aihara

デザインプリンシパル

クライアントとのふとした会話から、
潜在的な要望をキャッチし、
問題解決の提案ができるかどうかが成功の鍵

−相原さんは入社して26年とのことですが、何故プランテックに入社されたのですか。

プランテックでアルバイトをしていた友人から業務を手伝ってほしいと依頼され、学校に通いながら月2回ほどアルバイトをするようになったことがきっかけです。建築模型を作るなど大学より実践的で面白い仕事が多く、実力次第でアルバイトでもプロジェクトの担当者になれる点も性格に合っていました。また、何よりも大江さんとの出会いにより、「この会社は自分に向いているな」と感じました。社員以上の努力をしなければ大江さんに響かないので、何事も求められる以上のことをこなしました。常に求められる以上の事をやろうとするアルバイト時代の習慣が、今も生かされていると感じています。そうしているうちにプロジェクト担当者として認められるようになり、教授とプランテックの副所長からの推薦を受けて正社員として入社しました。ちょうどファンハウスが竣工した頃(1993年竣工)で、所員は15名ほどしかいませんでした。当時のプランテックは一般的な新卒採用は行なっておらず、アルバイトやインターンシップの学生のうち、頭角を現しつつある勢いのある人材を採用していました。「サバイバル精神」が旺盛な独自性のある社員が多く、その中でも特に個性を持った社員に対して大江さんが直接指導を行い、「プランテックイズム」が根付いた社員が育っていきました。私自身も早くからデザイン統括を任せてもらいましたし、創業初期のメンバーが現在も役員やリーダーとして活躍しており、大江さんの人の能力を見抜く力はさすがだなと今でも感じています。

同業他社に先駆けてIT化を実現し、⼤規模プロジェクトに次々と挑戦

−少数精鋭の中、その頃のプロジェクトへの取り組みはどういったものだったのでしょうか。

創業初期の頃は、所員数が少ない上に3,000㎡以上の建物の設計は未経験のメンバーばかりで、小規模の物件を積極的に受注していました。徐々に5,000〜10,000㎡の物件が多くなり、所員数も増え、クライアントも増えて仕事の幅が広がっていきました。コンペ・基本設計・実施設計・監理が同時進行する4つのプロジェクトを一人で掛け持ちすることも日常でしたね。特にコンペは自分達を成長させてくれるもので、この頃に底力がついたと感じます。
大規模プロジェクトの先駆けとなったのは玉川高島屋S・C南館(2003年竣工)で、その後日産グローバルデザインセンターやソニーシティ(いずれも2006年竣工)など次々と大型案件を手掛けていきます。その頃大規模コンペが重なり、効率化を徹底するために、プランテックは同業他社と比べて早い段階で設計業務のIT化を実現しました。多くの建築家がプランテックの事務所を見学に訪れ、IT化のデモンストレーションを行うこともありましたね。実は、他社に先駆けてIT化が急速に進んだ理由は、大規模コンペに参加する際の手書きの図面作成が非効率に感じ、「コンピュータで作成した資料をコンペに提出したい」と私が大江さんに直訴して採用されたことがきっかけなのです。社内から製図板が消えて、IT化が一気に進んだ事を振り返ると、プランテックの設計業務person改革の過渡期に立ち会っていたなと感じます。

設計業務は気を利かせて想像⼒を働かせて成⽴するもの

−その当時と現在を比べてプランテックの業務やスタッフについて変わった部分と変わらない部分を感じることはありますか。

当時と現在では求められるクオリティやポイント、業務環境が違うので全てを比較はできませんが、CGを制作しPhotoshopで修正して仕上げる作業工程やクオリティは当時も現在もあまり変わらないと思います。今のスタッフは真面目なのでCGを丁寧に作り込む傾向がありますが、当時は伝えたい重要なアピールポイントに絞って制作していたので人手が少なくても効率良く仕上がっていたように感じます。その頃の所員は手書き図面も制作していた上、コンピュータも使えていたので、検討した考えをアウトプットすることに難しさは感じていませんでした。今のスタッフは初めから設計業務にコンピュータを使用する環境なので、スケッチを描かなくなっている点には懸念を感じます。思考を形にする方法をもう少し鍛えてほしいし、鍛えていきたいですね。
変わらないところは、若手スタッフの時から、意志を持って取り組めばやりがいのある業務を勝ち取ることができる点や、クライアントと直接コミュニケーションを取る機会が多く接し方や交渉術を学ぶことができる部分ですね。その点をしっかり意識して取り組むことが成長に繋がり、クライアントや施工者から信頼を勝ち取ることができます。私が今でもお付き合いしているクライアントの中には若手スタッフの頃に出会った方も大勢います。ただ頑張ればいいのではなく、多能的な動きを意識し、時には失敗を恐れないチャレンジやコミュニケーション、フォローも重要です。設計業務は気を利かせ想像力を働かせて成立するものですから。

−プランテックのデザイン統括担当を早くから任されていたお話が冒頭のトピックでありましたが、プランテックのオリジナリティを構築していったのはどういった経緯だったのでしょう。

デザインについては入社から長年に渡り大江さんと論議し、プランテックのデザインベースを構築していきましたね。例えばファンハウス(1992年竣工)や細見美術館(1997年竣工)は土壁が特徴の外壁で、その頃の大江さんのオリジナリティが表れています。その後、日産自動車やサントリーの生産施設や研究所など大型プロジェクトが徐々に増え始め、機能美や清潔感、先端性を感じるものを求められるようになりました。そういった施設を設計するためにはロジックをデザインに取り入れなくてはならず、デザインがその頃を境に切り替わり、白い外壁を採用するなどシンプルなデザインに変化していきました。白くシンプルで強烈なインパクトを残すプランテックのデザインは大江さんとの論議の末に採用されたものです。最近は光触媒など技術も進化し、外壁が白くてもクリーンで汚れにくい素材が増えてクライアントからも受け入れられやすくなっていますね。

⼟壁が特徴的なファンハウス
⽇産テクニカルセンター

プロダクトデザインの⾯⽩みは、⾃分がデザインしたプロダクトが
街中で使われているシーンに遭遇するところ

−相原さんはプロダクトデザインも手掛けていますよね。きっかけを教えていただけますか。

豊島合同庁舎(1996年竣工)プロジェクトの時に特注でデザインしたオリジナルのレバーハンドルが大変好評で、デザイン製の高い建築金物製品を扱う「UNION」にて製品化されることになりました。建築は本来オーダーメイドですから全てをクライアントのためにデザインすべきですが、例えばドアハンドルなどの建築金物を選定する際に、既製品の中から選定しようとしても、思うような製品が見つからないことが多々ありました。そこで、建築全体のデザインとマッチする製品を選定できるように、レバーハンドルや押し棒など複数のハンドルを同素材でデザインしたシリーズとして製品化させました。また、ある大規模プロジェクトで各部屋のドアハンドルを選定する際には、素材は部屋ごとのインテリアに合わせて革や木などの素材に拘りながら、形は同一形状とすることで建築全体の統一感をもたらし、クライアントからは画期的だと好評を得ることができましたね。そういう強い拘りが大事だと思っています。
その他にも車のコンセプトデザインを手掛けたり、消火器スタンドや犬小屋、耐震天井などをデザインし、製品化されたりしています。プロダクトデザインの面白みは、自分の意図しない場所でお客様が使っていたり、自分がデザインした製品に偶然遭遇するところですね。
プロダクトデザインの世界では、多くのデザイナーが似たようなデザインを考えついていると思います。しかし、デザインを思いついても性能や材質が追いつかず実現が困難な場合が多くあり、その点を技術で解決できるようになり初めてプロダクトとして世に出ることになります。

ドアハンドルデザイン
消火器スタンドデザイン

コンセプトカー・ルームミラーデザイン

チェアデザイン

消火器スタンドデザイン

クライアントの経営課題を的確に捉え、期待以上の成果を発揮していきたい

−長年プランテックのデザインに携わり基礎を築いてきた相原さんですが、今後挑戦したいことはどんなことでしょうか。

プランテックは、創業初期の頃からクライアントが抱える課題や問題をキャッチして、それを解決するためのソリューションを提案することを得意としてきた設計事務所です。クライアントを訪問した際のちょっとした会話の中から、クライアントが抱える問題が見える時がありますが、そこを見逃さずに問題解決の提案ができるかどうかで、クライアントからの信頼が生まれ、仕事に繋がってくると思っています。建築の仕事は、気が利くかどうかがとても重要であり、プランテックの若手スタッフにも、それを伝えていきたいと思っています。今後も、今まで以上にクライアントの抱える問題や経営課題を的確に捉え、クライアントの期待以上の成果を発揮していきたいですね。